2019年12月5日の文章
お釈迦様は、この厳しい娑婆世界にわが身を投じて、私たちを苦しみの淵から救う為にたくさんの説法をされ、お経として引き継がれ今日に至っています。
「末法の世」となり、お釈迦様の教えは薄らぎ、自分たちに都合の良いあり方に解釈され世に広まっているのではないかと感じています。
私たちはこの世に一遇のチャンスをいただいて存在しています。意味なくしてここに存在しているのではありません。輪廻転生を繰り返し本当の苦しみから逃れる為の勉強の場をこの私たちのいる娑婆世界で与えられているのです。
前世からの因縁によってそれぞれの家庭の中に迎え入れられますが、先祖代々からの悪因縁もあり、金持ちだろうが貧乏だろうが比重的には同じようなものです。
良い因縁を使い果たして悪い因縁に振り回され苦しみの中に入っていきます。 天狗になったり卑屈になったりせず、与えられた行場で何のために生かされているかを知らなければいけないのです。
半世紀位前までは道徳心や常識を皆わきまえて生活していたように思いますが、現在は個人尊重が強く、子供にまで気を使いながら生活しなければならない状態になっているのではないでしょうか。注意も指導もできない中、職場に於いても、学校の先生方もたいへんと聞きます。
向上心を望まない人の心に入り込み、わざする者が侵入してくるのは当然の事です。独り言を言っている人や奇声を発している人などもろに左右されているのです。
昔は認知症や発達障害など、そんなに多くはありませんでした。
私たちのこの世は、眼に捉えることができる者たちだけの世界ではありません。神様の世界、仏様の世界もこの世に存在し、また、悪の世界も数多く存在していて、関りあいながら日々が回っているのです。
真実を教えてくれる者もなく、知る術もなく自然は崩壊し、人の心も壊れ、難病や事故、詐欺、殺人など何を示唆しているのでしょうか。
例えば 私たちにとって水はとても大事です。水神様は私たち人間に清い水を与えるためのお働きをされますが、私たちは感謝していただいているでしょか、使いたいだけ使い、汚して流す、詫びの心をもったことがあるでしょうか。
お礼も言わず長年使わせていただいていた井戸を簡単に封じ込めてしまったり。 池や沼を埋めて宅地にして家を建てたり、海を埋め立てたり、様々なあり方で水神様の領域を荒らし、罪を代々重ねているのです。
すると水神様も人間の有り様に堪忍袋の緒が切れて厳しい知らせを受けることになるのです。
封じ込みは心臓を害し、水を必要以上に汚せば皮膚病、酷いときは水難となり、常に寒さも伴ったり鼻水が止まらなくなったりするのです。
一升の水にも水神様がいらっしゃる、というぐらい大変厳しい神様なのです。ましてや海、山に散骨すれば海神様、山神様を汚しあの世はその罪によりきわめて厳しいものとなります。
「こころづくり」とは、対人間同士もそうですが、「神仏」に対してのこころのあり方をしめすものです。そのよう心があの世への「道づくり」なのです。
私たちは土地の神様、火の神様など沢山の神々様の恩恵を受けて暮らしています。
代々感謝もお詫びもなく今日までいたっていますが「偉大な神仏」に罪を犯して死んで良い所に行ける道理は一つもありません。
神様のお役目は私たちがこの世の事柄によって悟っていくために必要なものを与えてくださるのを「行」とし、「如来・菩薩」仏様はあの世への「心の導き」慈悲、慈愛をもって私たちにあらゆるかたちで教えてくださっているのですが、誰も気づきません。
先祖代々からの大きな悪因縁に皆さん、苦慮しておられますが、私ども慈光院では長年の修行により「解決の法」を確立しました。また2017年に「神仏修行の中で 心づくりへの遥かな道を」という本を文芸社より出しました。
分かりやすく書いたつもりですのでぜひ読んでください。お願い信仰では道は開きません。質問などありましたらぜひ問い合わせてください。厳しいかもしれませんが真実を真実のままに対処させていただきます。
2020年1月17日の文章
「火宅の人」 法華経の中、比喩品第三の中に説かれています。
家が煩悩の炎に燃え盛っているのですが、中では子供たちが遊びに夢中で気づきません。父親が一生懸命知らせるのですが見向きもせず遊びにふけっているのです。
それに家の中には様々な悪鬼や毒虫などおそろしい状況の中、もう炎が近くまで迫ってきているのですが全く知りません。 父親は知恵を使い子供たちを外へと誘導して危ういところを助ける。という方便を説いてあります。
子供たちは私たち凡人の事です。父親は仏様です。
仏様方は私たちを輪廻転生の苦しみから救い正しい道へと導くための努力を常にされているのですが、私たちは甘い蜜の中で、おそろしい現実が迫っていることを知ろうともしません。
「わたしの悟った法は世の流れに逆らうものである」と、お釈迦様は言われました。 お釈迦様は悟りを開かれたとき、この教えを説いても誰も理解できないだろうとお考えになり自分一人誰にも説かずにしまい込もうとされたのですが、梵天や神々様方の懇願により説法をされることになられて、今日、私たちはありがたい教えをいただき「修行」の道を歩ませていただいています。
例えばこういうことです。 「あなたらしく生きれば良いのです」
個性を尊重した良い言葉と思いますし、悩んでいた人は安心感を持つでしょう。 でも真理の世界では違うのです。
自分の個人的「我」は一切捨て、真理に添った考え方、あり方が必要なのです。 ところが、それではこの世を生きて行くことはできません。この世のみんなが同じ方向を向いているわけではありませんからトラブルになります。
仏の真理を理解した上で「中道」中道心をもって相対していくことが大事なことなのです
お釈迦様は様々な方便をもって私たちに真実を説いておられます。 お経は教えです。私たち一人一人の大事な宝なのです。決して難しくはないのですが、物質的世界で物事を捉え考えてしまう私たちには考え方の道筋が少し分かり難いのかもしれません。
私ども慈光院では、会話の中で少しずつ見えない世界との関りあいを説いています。一回足を運んでくだされば「なるほど」と思えることは沢山あると思います。遊びがてら寄って疑問を投げかけてみてください。
神仏の名代として対処し、分からない事は(この娑婆世界でどうしても必要な事柄)それに対して修行を重ねていきたいと思います
2020年4月13日の文章
五月八日は馬頭観音様の年祭です。 馬頭観音様は観世音菩薩様 の変化された菩薩様で三面の激しい怒りのお顔と火焔を背に動物たちを慈悲の心で守っておられる仏様です。
現在、ペットブームで犬、猫をはじめいろんな種の動物を家族のように大切に愛情を注ぎながら暮らしている方々も多く、葬式や供養などされています。 その一方で、人間の好みの肉として生まれさせられ小さな囲いで、短い命を切られていく動物達もいます。どちらも同じ動物であり私たちも動物の一員であることは確かです。
「弱肉強食」の娑婆世界ではありますが、今のこの世のあり方は昔からすると動物達にとっては、まさに地獄そのものだと感じたことはありませんか。
戦後の子沢山の頃に生まれた私の仕事は朝夕のニワトリの餌やりでした。春になれば土手のレンゲ草、雑草などを細かく切り米ぬかと水でまぜて食べさせていました。
正月やお祝事で年に何回かニワトリが犠牲になるのですが、朝夕に世話している私にとってはとても悲しい事だったのです。
「かわいそう」と言う私に「野菜と思いなさい」と言った叔母。 餌を食べているニワトリに「今度、生まれてくる時は人間に生まれておいで」とブツブツと言い聞かせていた頃を思い出します。
二十歳を過ぎる頃まで、鶏肉を口にすることができませんでした。
『輪廻転生』、私たち魂は、魚、鳥、あらゆる動物を経て高等動物の人間までたどりついてきたのですが、この娑婆に生まれ出る時、白紙のような状態で生まれてきますので、過去世、前生の事を一切覚えていません。 その分からない状態の中から、まわりを見、聞きしながら真実を感じ取って前に進んでいって欲しいという、仏の慈悲の心なのです。折角、人間に生まれたとしても『業』により、また畜生界へと後戻りする魂も数多いのです。
養っている人も、食している私たちも同じですから、馬頭観音様のお祭りの日に、先祖代々からのペットの霊や家畜霊、また私たちの血肉となって身をささげてくれている動物霊に対して供養も重ねて修法しています。
養っている人は月々の供養は必要な事と思い、そうしてあげてほしいです。
浮遊霊となってさまよっていることを知ってほしいです。
現在、世界はコロナウィルスで大変な状態を招いていることの真の原因はどこにあるのかも、自然を壊してしまったこと、私たち人間はいま一度考えてみる必要があると・・思いませんか?
2021年2月17日の文章
お釈迦様が説かれたお経今は各お経も現代語に訳され、一般の方々も内容を理解しやすくなっていると思います。
さて、阿弥陀経にはどのような事が説かれているのでしょうか。 阿弥陀経は、お釈迦様自身が誰かの質問に答えるのではなく「こんな素晴らしい浄土がある」という事を自ら楽しく話された「お経」です。
私たちは常に輪廻転生を繰り返し安堵することがありません。早くこの苦の世界を離れ、西方の十万億土を過ぎた先にある阿弥陀如来様の国土に行くことを目的として修行を積んでいきなさいと説かれたものだと思います。
私たちがこの世にいて想像できる範囲をはるかに超えた世界のようです。
お経の前半では、極楽浄土の素晴らしさを説かれています。このような素晴らしい世界に生まれたいと発願し、尊き者の教えを請い悟っていくなかで退転することのない心を持つことによって生まれることができる浄土であると記されています。
私たちのいる世界には地獄、餓鬼、畜生界がありますが、阿弥陀如来様の浄土にはこの三悪道がありません。この国には仏法を求める者のみが生まれる世界であると説いてあります。簡単に行ける世界ではありませんが、コツコツ修行を積んでいけば輪廻転生の中でいつかはたどり着ける浄土です。お釈迦様も菩薩の時代を経て無量劫という数で表せないぐらいの永い行の末に如来になる最後の行場として、悩める私たちを救うためにこの娑婆世界に降臨されたのです。
娑婆世界に生まれる時は、過去世の記憶は消されて生まれてきますので、お釈迦様も大変ご苦労されたことが別のお経に記されています。 苦行の末、菩提樹の下で悟りを開かれたのですが「悟りを開く」とは開く扉があるから開くことができるのであって、私たちは永きにわたって行をしているわけではありませんので、開けられる扉はありません。今は頭を打ちながらひとつずつ悟っていく段階でしかありません。
扉の向こうにはお釈迦様が行じてこられた宝が山ほどあり、それを説いてくださったのが「お経」となっています。 お釈迦様は五濁悪世「劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁」のこの汚れ多き娑婆世界で悟ることは難しいことでありました。世間の人のためにこの「法」を説きましたが、「阿弥陀如来様の浄土に生まれるのはかなり難しいことですよ」と説いておられます。
観無量寿経の中には韋提希夫人の事が説き示され、極楽浄 土 への道のりを詳しく説かれていますが凡人にできる行ではないようです。私たちも静止観(座禅)をもって観想してみましたが雑念が多くとても難しいことです。
まして悪人も救われる極楽浄土などありえないことです。 ただ「下品上生」五十億劫年、「下品中生」八十億劫年、「下品下生」八十億劫年、犯した罪によって何億劫年の輪廻転生を経て(その間目覚め仏道を行じた者)は極楽浄土へ生まれることが出来るとあります。
一劫年はおよそ四億三千二百万年位といわれていますので、やっぱりきびしい道のりです。
この娑婆世界もひとつの牢獄です。どんなに位の高い人であろうが、天才といわれる賢者であろうが、貧しく愚かであろうが、どんな魚、鳥や動物たちも共々どうにもならない。一見広いようだけど狭い地球に閉じ込められているのですから、意味があると・・・。
素直な心で手を合わせ考えてみましょう。
法華経の中「妙法蓮華経如来寿量品第十六」の中に「我れ常に衆生の道を行じ道を行ぜざるを知って度すべき所にしたがってために種々の法を説く、毎に自ら是の念をなす」とあります。
仏法を求める心があればいつか賢者に出会えるかもしれません。 これが「仏の導き」だと思います。知っているようで知らない「神様」「仏様」です。 神様とは「神」という様々な役目をもって仏道を行じておられる方々です。私たちを仏道へと導く為の手助けをすることを「行」ともされています。土地の神様、水の神様、火の神様、生活に必要な物を与えてくださる神様方、龍神様や龍王尊様、仏法を守っておられる四天王、数多くの神様方が私共を守り導こうと努力されているのですが・・・。
仏様は「こころ」の導き。前に進むには身、口、意「浄三業」、「八正道」など行じつつ仏道へと導こうとされているのですが・・・。 人の心は我欲が強く難しいと、説かれています。 合掌 2021年2月17日
2021年6月19日の文章
地蔵大菩薩様の大慈悲心
何も知らなければお地蔵様とは、よく道端などに白や赤いよだれ掛けをして立っておられる仏様と想像してしまいがちです。お地蔵様の偉大さが分からず「〇〇地蔵」など自分たちの都合のよい表し方で大変罪深いことをしている我々であります。
延命地蔵菩薩経 によりますと、カ羅陀山で釈迦如来様が説法され法話が終わった時、帝釈天が釈迦如来様に質問をされました。 「お釈迦様、私はこの世を護っていきたいと思っていますが、仏様がこの世を去られた後どのように衆生を救済すればよろしいでしょうか」と仏様に尋ねられました。すると釈迦如来様は「何も心配することはありません。地蔵菩薩という一人の菩薩がいて、六道におもむき、苦を抜き、楽な道へと導いてくれます」と言われ、地蔵菩薩様の果報を説かれたのでした。「延命地蔵菩薩経」を手にされれば分かると思いますが、私たち迷路にいる者にとって誠にありがたい慈悲深い尊い菩薩様であります。
● 数えられない位の劫という昔、清浄蓮華目如来という仏様の国土に羅漢という仏様のもとで行じている方があり衆生を導いておられました。羅漢は一人の女人、光目と出会い食の供養を受けます。光目に「何か願うことがありますか?」と尋ねると「母の命日に福を供え助けたいと思いますが、未だに母の行った先が分かりません。」羅漢は光目の切実な思いに静かに定に入り観見したところ、母親は悪趣(地獄)に堕ち大変な苦しみを受けていることを知り光目に尋ねました。「あなたのお母さんは生きている時どのような悪業を行いあのような惨い苦しみを受けているのか?」と。光目は母親の生きている時の悪業を説明しました。「尊いお方お願い致します。私を哀れと思いどうすれば母を助けられるか教えてください」と哀願したのです。羅漢は光目に対
して 「心から清浄蓮華目如来を念じ供養を続ければその内良い結果が表れるでしょう」と説いたのでした。早速、光目は仏像を描いて一切の執着を捨て、供養恭敬をすると夢に仏身が現れ金色の大光明が放たれるのを見ました。そして光目に告げられたのです。「そなたの母はしばらくして家の下女の子供として生まれ、飢えと寒さの中で、自ら説明するでしょう。」すると下女に一子が生まれ三日も経たない内に光目に悲涙しながら話ました。「私はあなたの母です。あなたと別れてから大地獄に堕ちあなたの福力で生まれてきましたが卑しい身分の者となり短命です。また地獄に堕ちてしまいます。」「何の悪業によって堕ちるのですか?」と母に尋ねると「殺害(魚、魚卵など多くを食べた罪)と悪口との二業によりこの報を受けました。あなたの福力によって助けられたのですが」「地獄の苦しみを教えてください」と光目。「話すことは耐え難いことです。百年、千年かけても言い表すことはできません。」光目は母よりこの事実を聞き号泣し空に向かって「私の母は地獄を出ても十三歳を終わり、また重罪、地獄に堕ちることのない様十方の諸仏、慈哀、私を哀れみ、私の母の為に発するところの広大な誓願をお聞き下さい。もし私の母が永劫に苦しみを受けないためにお願いです。私は今日より後、清浄蓮華目如来の御前にて誓います。また去って後、百千万劫の内あらゆる世界の所有の地獄、三悪道の諸々の罪苦の衆生を誓願して救抜し地獄、畜生、餓鬼等、悪趣から二度とそのような苦しみの世界に引き込まれないよう教え導き入れ終わってから、私は仏となりましょう」光目はこのような広大な誓願を発し清浄蓮華目如来に告げました。これをお聞きになった仏様は、光目の誓願によって母親の今後の道程を説かれました。後の解脱菩薩がその時の母であり、羅漢が無尽意菩薩、そして光目が地蔵菩薩であると説かれたのです。
● 計り知れないほど程の劫という昔、小国の王が隣国の王と友達になり十善を行じ衆生を導きましたが隣国の人民は多くの悪業をつくっていました。二人の王は議計して、一人の王は自分が早く仏道を行じ仏となって人々を救済しようと発願し、成就された王が一切知成就如来です。隣国の王は悪苦の衆生を一人残らず苦しみの中から救い安楽な仏の道へと導き菩提心を保てる状態になるまでは如来とならないと誓願をたてられ、いまだに仏とならず我々を導き続けてくださっているのが地蔵菩薩様です。地蔵菩薩様だけが直接、地獄に赴くことができるただ一人の菩薩様と聞いております。
偉大な地蔵大菩薩様のもと、当慈光院は先代より永きに渡り修行を重ね、優しくも非常に厳しい地蔵大菩薩様の導きにより悪業の因縁を修め衆生救済の法を授かりました。
自分を救うのは自分自身の善行でしかなく。今の世の中、何が間違いで何が真実なのか非常に分かりにくい方向に進んでいます。「みんなで渡れば怖くない」という言葉がありますが、みんなででも、一人でも怖い世界は目の前に大きく広がっています。考えてみましょう。私共は来られる方々と共に日々精進させていただいております。 合掌
2021年6月19日
2021年12月8日の文章
蜘蛛のような者たち
今のこの世は闇の世界が暴れやすいように整っていると思います。 私がこの「仏道」に縁をいただく前、昭和五十年代の頃だったと思いますが、美容院に行って順番を待っている時、置かれている月刊誌をパラパラとめくると気持ちの悪い絵を目にしました。一ページに大きく人の死体が描かれており、その両目、両耳、鼻、口そして下から小さな蜘蛛のようなものが無数にゾロゾロと列を成して死体から出ていく様子を描いた絵でした。絵の説明が書いてあったか分かりませんが、気持ち悪くてすぐ閉じたのでした。
それからしばらくして「仏道修行」の道に入り、この絵のことは頭の隅にもなかったのですが、修行の中でこの蜘蛛のような者たちと向かい合うこととなり、この絵の恐ろしさ奥深さを知ることとなりました。
まさか十数年後、忘れていた絵の本質を知ることになるとは、またその者たちと戦うことになるとは想像もできないことでした。 前に進むにはどうしても必要な恐ろしい行だったのです。
「仏道修行」をされている行者ならご存じでしょう。 しかし、知っていても一般には話せない事柄かもしれません。なぜかというと、「解決の道」がなかったのです。また、そこまで入っていくことは捨て身の覚悟が必要であり困難すぎます。
これまで歴史の中で誰も入っていった行者はいなかったのです。 人々が抱えている全ての悩み苦しみ、病気、事故、殺人、認知症、精神的病、ひきこもり、耳鳴り、様々な問題には全てこの者たちが関わっているからです。
この者たちの正体は魔の世界の者、動物霊です。 キツネ、タヌキの四足霊です。(魔神の世界はまたその上の世界です) 普通の動物霊は死んだら畜生界に引き取られます。しかし、人間は昔から戦が絶えず、その放置された(または自殺など)人間の血肉を食べてしまったキツネ、タヌキの類は人間の上等な魂をもらい利口になって、死んで畜生界へは行かずこの世に留まってしまったのです。
根からの悪ではなく、当初は「ウケモチノカミウガノミタマノミコト」様の眷属としてつかえていましたが、そのうち人間は感謝の心を失い、欲深く、愚痴の逆巻く時代へと移り「神仏」は退いてしまわれたのでした。そして前に出てきたのが、キツネ、タヌキの四足霊、この者たちでした。
しかし、どんなことをしても「神仏」の代わりはできません。永い歴史の中でそれぞれ四足霊の大きな組織が出来ていきました。人間の欲深い身勝手なお参りの仕方、また人間の心と死霊と共に進化しながら現在のような恐ろしい四足霊の組織が出来上がってしまったのです。
例えば、私達はお参りに行きお願い事をします。すると親分は下の者に「あの者を守ってやれ」といって、子分を何匹かつけてその人を死ぬまで守る役目を与えるのです。お願い事をする度に付き者が増えるのです。たくさんの四足霊たちは、そのまま何代にも渡り代々と子孫に移り守り続けるのです。
そして仮にその人が他の人から殺されたとします。(人を裏切り陥れたり、金銭トラブルなどで一家離散に追い込んだりした時も同じ)すると守っていた者たちは、殺した相手に移り攻撃の者となります。その人にも守りの者たちがついていますので、当然守りと攻撃の戦いが繰り広げられるのです。
この者たちは霊体になると蜘蛛のような形をしていて血液の中やあらゆるところに入り、体の中で守りと攻撃の戦いが繰り返されているのです。(この者たちは小さくも大きくもなる)もちろん脳の中にも入り込み、わざをするのです。認知症や精神を病むのもこの者たちです。耳に聞こえたり、見えたり、霊感などは「神仏」とは真逆の世界のなすわざです。
昔、私が東京に就職した時、寂しくて近くの神社にお参りしたことがありました。夕方だったので人気はなく、何となく不気味だったのですぐ帰ったのですが、誰かがあとをつけてきているような気がして振り返りながら足早に帰ったことを覚えています。何十年も経ってその者が私の左足に水虫となって、子分何匹かとしがみついていたことを知った
ときは驚きました。
この者たちとの私たちの戦いは何年も続きましたが、戦いでは道の開くことはなく、心と心で向かい合い、相手(四足霊)の立場、理由など理解しました。成功です。
動物霊であれ「神仏」を偽って犯した罪けがれは許されるものではなく、馬頭観音様に門を開けていただき「法」を授かり、帰依させられるようになったのです。しかし、この者たちにも「心」がありますから、まだこの世に留まり役目を全うしたい者、また遊びたい者も多く。帰依について四足霊に強制はしていませんし、またできません。
人間がそれぞれ四足霊に悪さされるには、その人やその家系にそれなりの因果関係があるので、わざされているのです。 私たちは甘えではなく、真剣に自分の人生と向き合い、この者たちに左右されない様、また遊ばれない人間にならなければなりません。その為に慈光院は悪因縁を修め、このような者たちに惑わされない「心」の指導をしています。そして本当の「神仏」に守っていただけるような心、また向こうの素晴らしい世界に導いていただけるような心のあり方をご指導させていただいています。
これが昔、私が目にした絵の真実でした。 合掌
2021年12月8日